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支援ボランティアさんからいただいた
感想文などを載せていきます。

理解することの大切さ

山王中学1年 西脇葉子

 私には、小さい頃から、母とよく一緒に行く集まりがある。それは、「高次脳機能障害」という障害を持った人たちが集う会だ。お年寄りではなく、十代や二十代の人たちが大変多い。集まる人は、それぞれの障害の重さや性格、外見は異なるが、交通事故、スポーツでの事故、または脳炎や脳しゅようなどの病気が原因で、私たちが普通に送っている生活が難しくなってしまっている。

 母は、リハビリテーションの仕事をしているのだが、高次脳機能障害の患者さんたちのリハビリテーションはまだまだ遅れているらしい。そこで、患者さんたちの友だち作りのために、先輩の先生とこの会を作った。そのような訳で、私も会の初めの頃から参加するようになった。最初は十人くらいの患者さんと家族だったが、今では毎回六十人くらいの患者さんたちと家族が集まるようになった。会では、いろいろな情報交換や、話し合い、ゲームなどをやったりする。家族向けの勉強会をすることもあるが、外で食事をしたり、カラオケをしに行ったり、少し遠出をしたりすることもある。私はこの中で、顔見知りの人と話したり、お茶やお菓子を出す手伝いをしたり、患者さんの小さい子供の面倒を見たり、歩くのが大変な人たちにドアを開けるなど簡単な仕事を何となくするようになった。

 「高次脳機能障害」というのは、言語・記憶・行動・感情の障害だ。事故や病気で脳の細胞が損傷されることでこういった後遺症が残ってしまうのだ。思っていることを言葉にして話す・今日学校であったことを思い出して母に話す・明日の予定がわかっている・お茶を入れる手順を間違わない・悲しいときに泣き、うれしい時には笑うなど、私たちが当たり前にしていることが出来なくなってしまうのだ。また、最近交通事故が増えたことに加えて、医療が発達し、かなりの大事故でも命が助かる確率が高くなってきたことから、高次脳機能障害の患者が急増している、という話を母から聞いた。その中でも、十代、二十代の若者が多い。学生だったり就職したばかりの時期に障害を持つということは、年齢が高い人とは違う問題が起こるらしい。まだ自分の人生の方向が決まっていなかったり、決まったばかりで中断しなければならないのは、どんなに大変なことだろう。

 だが、この高次脳機能障害は、手足が不自由だったり、目が見えない人たちと違い、外見から見分けがつかないこと、そしてこういう障害があること自体世間にあまり知られていないことのために周りの人に誤解されやすい。たとえば、物事の順番がわからなくなってしまうことや、記憶が出来ないことを、周囲からはなまけているように思われてしまうのだ。私とよく話すスタッフの先生も、「早く皆にもこのことを知ってほしい。」と言っている。

 顔見知りの会員の方に私がよくメール交換をするKさんがいる。友達や本の話など、内容は普通のメールだ。Kさんは歩くのは少し不自由だけれど、見た目は健常者とほとんど変わらない女の人だ。しかし、記憶の障害があり、メモをしておかないと身の回りの出来事を忘れてしまうそうだ。そして、その原因が交通事故なのだと思うと、将来がたった一回の事故に左右されてしまうのかと怖くなる。Kさんは事故の前は会社員だったが、今は辞めていて、病院や会の集まり以外は出かけられない。道を覚えていられないから一人で外出するのはとても大変なのだ。

 ただ母についていくだけの集まりだったが、中学生になり学校や将来のことが少し身近になってみると、今までとは違ったことを考えるようになった。私たちの周りには、外見からは判断できないような障害を持っている人がたくさんいる。そのことに対して正しい知識を持ち、理解していると言えるだろうか。集まりの会員の方が困っていたり悩んでいたりするのを見ると、現実の社会は残念ながらそうではないように思う。

 ほんの一瞬の出来事で、障害を持つか持たないかが決まってしまうこともある。もし自分がそうなってしまった時、他の人にどう接してほしいのだろう、と考えてみた。私はやはり、障害を持っていても持っていなくても普通に接してほしいと思うだろう。どれも、私の出来ること・出来ないことをよく理解したうえで付き合いたいと思うのではないだろうか。

 障害があるからといっても、「普通」の人と違うところばかりではない。出来ないことばかりではないし、出来ることもたくさんあると言うことを私は会員の方といることでわかってきた。それに、出来ないことも、周りの人の的を得た手助けで出来るようにもなる。例えば、言葉の不自由な人には、その人が言いたいことを言い終えるまでゆっくり待つことでわかったこともあるし、物の手順がわからなくなってしまった人には、次にするものを目の前においてあげることで出来るようになったこともある。何だかわからない、と言って構えてしまうのではなく、きちんと知識を持つことで接し方はわかってくると思う。

 だから、私は考える。「障害を持っていても、持っていない人と同じように相手のことをよくよく理解して接することで、互いの壁は無くなるのではないか」と。集まりに出席するのも積極的な気持ちになってきた。

 もっとあの人たちのことを皆に知ってもしい。何だって身近なことでいいから、障害を持っている人と接する機会を見逃さないでほしい。そうして理解することこそが障害のある人と健常者が共存できる社会になるのだろうし、必要なことだと私は思うのだ。
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